ようわからんが、スナップ写真には大別して二種類あるような気がする。
一つは、至近距離(標準レンズで3メートル以内?)から、人の表情を中心に撮ったもの。日本の写真を語るときに必ず出てくる土門拳や木村伊兵衛みないな写真である。
もう一つは、「場」と「人」との関係性、バランスの妙に訴える写真である。HCBの写真のイメージがこれに当たる。この場合、人の表情は極端に言えば写っていなくてもよい。
要は、「人(表情)」から出発するか、「場」から出発するかということではなかろうか。HCBの有名な水たまりをジャンプする人の写真は、あれが人でなくて犬でも成立するんじゃないかと思う。「始めに(「場」としての)」水たまりありき」である。HCBを「場」型のスナップ写真家と勝手に定義してみる。
そんなことを考えながら、ロバート・フランクの「アメリカンズ」を眺めていると、この人もどちらかというと「場」型じゃないかと思うが、しかし、「場」と「人」との関係の多様性をとても幅広く提示しているのが凄い。たとえば、エレベーターガールの写真はこの写真集の中でも好きな一枚であるが、エレベーターという「場」とエレベーターガールの虚ろな表情の取り合わせの妙に参ってしまうのである。
とやかくに愚考した結論は、「場」が舞台で「人」が役者、と考えればいいじゃないかということ。まず、舞台として整った場所を見つけること、そして役者が出てくるのを待つ。この場所に、こんな役者が出てきて、こんなことをしたら面白いぞ、みたいな、そういう想像力がスナップには不可欠なんじゃないかってことだ。そうすると、1枚の写真からドラマが生まれる・・・かもしれない。
こんなことを考えたのも、実は内田ユキオの話を聞いたお陰である。「その写真に何が写っていればもっとよい写真になったか考える」、「写っているもので、ないほうがよいものはないかを考える」、「(現場を)ぱっと見たときに、ベストな状況、まあまあの状況は何かを想像する」ってなことを言っていた。これまた、「目から鱗であった。内田ユキオはノートリミングに拘りを持っていると聞いたことがる。フィルムの端にホンの少しだけ何かを入れるか、入れないか。話を聞いていて、そこまできちんとコントロールしていることがよく分かった。写真は写っているものがすべてである、というのはそういうことでもある。
そこまでコントロールしても、偶然に意図せざるものが入り込んで来たり、撮影時に気づかなかったものが写り込んでいたりもするだろう。この意外性を「楽しむ」域に達することは相当に高度なことである。なぜなら、タイトなコントロールがあってこそ、「意外」が生じるのだから。